したい、したくない、あなたとわたし。

「相手が嫌がることをしちゃいけない」っていうのは、大体の人が幼い頃から言われ続ける定番の躾文句だと思います。
じゃあその「相手が嫌がること」っていう言葉から想像できるのは何だ、って話。

子どもの頃は世界が狭くて、自分自身も純粋で単純で、自分の「したい」が相手に対して如何に作用するかが想像できなかったから、とにかく「したい」を制御する方法を覚えるのが大切だった。
自分の「したい」が相手のそれを邪魔しないか?相手の自由を邪魔しないか、権利を尊厳を傷つけないか、悲しませないか……。

そうやって少しずつ、自分の領域をコントロールすることで相手の領域を護ること、そしてそれが結果的に自分の領域を護ることだってのを知るわけですな。
「みんなが気持ちよく生きられるように、お互いの領域があることを知る」ってのが、幼い子どもへの「相手が嫌がることをしちゃいけない」なのだ。

で、大人になって、「したい」の範囲が広がってからが本番。
「したい」の中には「したくない」が含まれている、ということに気づいてからが大本番!
「相手が嫌がることをしちゃいけない」っていう言葉の意味が一気に拡大し、多重構造になって、複雑化してくるの。
「したい」で相手の尊厳を冒すことはもちろん、「したくない」で冒すこともできる。
強制や強要で冒すことも拒否や否定で冒すこともできる。そこに悪意があるかどうかは関係ない。
だから、知らず知らずのうちにやっちゃってることもあるし、気遣っているつもりが傷つけてることもあるし、これが非常に!難しい!

また厄介なことに、そんな風に「したい/したくない」の間で七転八倒してると、自分の領域をないがしろにしやすくなったりもする。
要は「自分が我慢すればうまくいく」って思っちゃう。
これは相手の「したい/したくない」をそのままの形で受け取っているから起こることで、「私がしたいことをあの子はしたくないのだから、我慢しよう(逆もまた然り)」っていう非常に単純な回路のままでいるからそうなる。

ちゃうやん。
そのロジックは、まだまだ世界が狭くて単純で、お互いの領域が「あることを知らなかった」頃に対する躾やん。

大人である私たちは、既にお互いの領域が「あることを知っている」わけですね。
そしてその上で、お互いの領域を「融合させる喜び」を知っているから、そうしたいわけですね。
とある事象をどっちかが望んでいてどっちかが望んでいないなら、じっくり多方面から見て「融合できる角度」を探せばええんちゃいますか。

私がしたいことを、相手はしたくない。
私がしたくないことを、相手はしたがっている。
その奥にあるのは何?どうしてしたい/したくないと思っているの?
そこをつぶさに観察し合って、お互いをよく知って、その事象の奥にある望みに触れることができたなら、そこからどうお互いの望みを融合させていくか?という段階に至る。

「相手や自分がしたいこと/したくないことを、相手も自分も望む形で融合させて、実行する」っていうのが、世界が拡がって複雑化して、お互いの領域があることを知っている私たち大人に対する躾なんじゃなかろうか。

そのことに気づいた者同士なら、お互いになんぼでも選択肢や代替案を出し合ってわくわくやどきどきを共有することができると私は思うのだ。それも、とても自然で、お互いにお互いの領域を膨らませる方向で。
お互いがお互いを本当に大切だと思っている同士なら、したいと思う方もしたくないと思う方も、相手の「したい/したくない」の奥底に隠れている望みを知れたら、きっとそれがとっても嬉しくて楽しくて愛おしいものだと思えるのではないかしら。
お互いの領域を融合させる喜びを、共に味わいたいと思えるのではないかしら。

そんな風に思ってからですね、気持ちがふんわり軽くなりました。
相手にはもちろん我慢させ続けなくていいし、自分も我慢し続けなくていいんだよって自分に言えるようになりました。
本当に欲しいものは何だい?本当にしたいことは何だい?って静かに自分に訊くことで、事象に対する執着がふんわり軽くなるんだよ。

とはいえやっぱりしたいことはしたいのです。望みの上に成る事象を味わいたいのです。
それをどんな風にバランスを取っていくのかはこれからの段階!
気構えずに取り組んでいきたいものですな。