目の前にあるものすべては不思議で面白い。

ルミKheちゃんいいこと言うわ~~~ほんとそれよね。

そう。「目の前にあるものすべては不思議で面白い」。

もやもやしてたものがばちこーん!とまとまった瞬間だった。ありがとうルミKheちゃん。
というわけで、書きます。

ももねこは「目に見えない不思議なもの=特別すごい」っていう方程式には則れない

スピリチュアル系のアレコレ……目に見えない不思議なもの、を特別視する空気ってあるじゃん。
ぶっちゃけ、私はあれがどうにも辛い。

で、何で辛いと感じるのかな?って、ずーーっともやもやしてた。
「目に見えない不思議なもの=特別すごい」っていう方程式に則って語ることにものすごい抵抗を覚えるのは何故なのか?って。

これまで私がブログに書いてきたことってね、無意識的にか意識的にか、とにかく≪その方程式を受け容れようともがき続けてきた記録≫なんです。
そのことに最近気がついたんです。

いわゆる高次の存在とか過去世とか、そういうものを一生懸命「定義」して、特別な役割を「設定して」「納得しようと」していたの。
「私の目に見えない不思議なものたちが存在して、私の知らないことを教えてくれるから、彼らは特別なんだ」と、どうにか「目に見えない不思議なもの=特別すごい」っていう方程式に則ろうとしていたの。

でももうやめる。
何かを特別不思議で特別すごいと定義するのは、私にとってすごく難しいことだから。
やめだやめ!やめやめ!!きれいさっぱり終幕じゃ!!

目の前にあるものは、すべて特別ですべてすごい

いいかい、ももねこちゃん。
君の感性では、「目の前にあるものは、すべて不思議で面白い」のだよ。
言い換えると「目の前にあるものは、すべて特別ですごい」のだよ。
そして目に見えるものも見えないものも、それらはすべて「目の前にあるもの」なのだよ。

虫も花も雨も空もビルもPCもペットボトルもリーディングもサイキックアートも声も音も匂いも温度も風も紙もiPodもスマホも電卓も猫も森も魚も恐竜もぬいぐるみも本もスピリットガイドもハイヤーセルフも師匠もルミKheちゃんも会社の人も親も友達も自分自身も!

全部全部ぜ~~~んぶ、目の前にあるものすべて、それは物理的でもそうでなくても近くても遠くても過去でも現在でも未来でも自然でも人工でも、全部全部全部!不思議で素敵ですごいんです。

だから、「目に見えない不思議なもの=すごい」的な価値観に自分を寄せるのはもうやめるねん。

目に見えるものもそうでないものも、すべて目の前にあるもの

さて、上述のとおり、私にとっては「目に見えないもの」も「目に見えるもの」もすべて平等に「目の前にあるもの」です。
すっげえシンプルに「それらすべてはそこにある」ってことだけが私にとっての事実なのだから、どちらかだけを特別視する姿勢が本当によくわからないのだ。

でさ。
私はリーディングをやっているので、リーディングを例にして書きますと。

リーディングでメッセージを得たくなるのって、思考・行動のきっかけが欲しかったり方向性・可能性を拡大もしくは絞りたいときじゃないかしら。
もう少し適切な言い方に変えると、思考・行動のきっかけが欲しかったり方向性・可能性を拡大もしくは絞りたいときに、「自分以外の何かからヒントを得たくなる」んじゃないかしら。

要は、ヒントなりメッセージなりってのは、目に見える見えない関係なく目の前にあるものすべてから得られるってことよ。

それらのいずれも同じくらい大切にすればいいし、感銘を受けたり納得したりしたら素直に受け容れればいいし、相容れなければ例え“高次からのメッセージ”であったとしても「相容れませんので保留で」とか「よくわかんないけど参考にはする」とか、そういう風にしたらええんですよ。

私はね、目の前にあるものすべてから得られたメッセージと向き合う姿勢は、それが何であれまったく同じなんだ。
ナゼナニナンデの応酬を、目に見えようが見えまいが対自分でやり続けてるんだ。

「目に見えないもの」を「目に見えるもの」にする

とはいえ、目に見えないものが目に見えないってのは事実ですね。
時には知覚できないことを知覚できるようにする作業が必要なこともあるわけです。
リーディングやら何やらって、そういう作業のことなのです。

例えばさ、水族館の水槽でお目当てのいきものを探すとするじゃない?
それがとてもかくれんぼの上手ないきもので、一生懸命探さないと見つからないことってあるじゃない?
で、見つかるまでは「いない」けれど、見つかった瞬間「いる」になる。
そういういきものを見つけるのが得意な人・慣れた人と不得意な人・慣れていない人がいるでしょう。あれと一緒ですよ。
見つけるのが得意な人・慣れた人が「あそこにいるよ」って誘導することで、苦手な人・慣れていない人がそれを知覚するのを手伝うのね。
で、それを繰り返すうちにみんなが自分で見つけられるようになったりする。

リーディングやチャネリングもそれと一緒なんだよな。
以前書いたとおり、私が提供しているものは「あなたのスイッチを入れるための刺激」。
要は、「目に見えない、目の前にあるもの」を可視化すること。
そういうことなんだよな。

目に見えるものもそうでないものも、信じられないのなら信じなくていい

例えばよ。

「悩みがあって○○(人間でも高次でも何でも好きな対象でどうぞ)に相談したんですけど、どうにもしっくりこなくて、でも○○が言うのだから正しい気がして、だからその○○のことを信じようと努力しているんです。」

だの、

「カードリーディングやチャネリングですごく心に染みた一言があったんですけど、正しく繋がれているかどうかわからなくて、○○(ガイドでもハイヤーでも何でもどうぞ)のメッセージが信じられないんです……どうやったら繋がれているという確証が持てますか?」

って、それめっちゃ無駄やん。
エネルギーの矛先が「悩みを解決するための気づきを得る」じゃなくて「その○○を信じる」になってるやん。
要る?それ。要らないんじゃない??私は要らないと思うよ。

とにかくそれが自分のためになるかどうかっていう点に集中すれば、「○○を信じる信じない」なんてことはそもそも発生しないわけです。
実際、大嫌いな人や信用できない人のの言動……純粋に「その言動そのもの」が、自分のためになることもあるでしょう?

ぶっちゃけ、メッセージの出元がどこか、なんてのは気づきを得る上ではどうでもいい

相手が誰であっても、メッセージの出元がどこであっても、「気づき」になるかどうかが重要なのであって、乱暴な言い方をするとメッセージの出元がどこであるか何であるかなんてことはどーでもいいんですよ。

めっっっっっちゃ感銘を受けた一言があったとして、それが実はあなたの大嫌いな人の一言だと後からわかったとして、じゃあその一言に受けた感銘は嘘だったのかってこと。
「あいつが言った言葉だったなんて!最悪だ!自分は感銘なんて受けていないぞ!」と手の平を返すのならそれはそれでいいけどさ……。

私としては、メッセージの出元が何であれ、「気づきをくれてありがとう!」って思うのは一緒なわけです。それが無機物だろうが何だろうが一緒。

もしもきれいな石を見つけて立ち止まったおかげで、その石をきれいだと思える自分の感性に気づいたとしたら、石~~~!ここにいてくれてありがとう~~~~~!ってなるよ。
石からすれば「え?あ、う、うん??(何こいつ怖い……)」ってなるかもしれないけれど。

そうそう、ももねこのリーディング内容においても腑に落ちないことがあればもったいないと思わずにスルーしてください。そのうちわかるときが来るかもしれないし、来ないかもしれません。来たらそれはとんでもない大発見!になったりもします。来ないかもしれないけどね。
そのときが来るかどうかも、結局は自分の気づきアンテナの精度にかかっていたりする。

まとめ

ああだこうだ書きましたが、言いたいことはこれです。

「目の前にあるものすべては不思議で面白い」!

そして、すごい。

もしも今、目に見えないものばかりをありがたがって特別視しているとしたら、それはきっと目に見えるものを無意識の内にないがしろにしているんじゃない??
そこにあるのがアタリマエだと思ってるんじゃない?アタリマエはすごくない、ってそう思い込んでいるんじゃない??
すべてが途方もないキセキの積み重ねで目の前にあるんだってことを、忘れているんじゃない??

もしそうだとしたら、超超超もったいないぜ。
目の前にあるものすべてを、素直に大事に味わい尽くして生きていこう。

(2016.10.10追記)
続きの記事を書きました。併せてどうぞ。
⇒20161005:続・目の前にあるものすべては不思議で面白い。