タロットの『カップ 6』は過去の喜びを示します。過去に通い合わせた心が、現在の安定の礎となるイメージです。「あの頃の美しい思い出があるから今もここにいる」「あの時のやりとりが鍵になって今も一緒にいる」いうことがあれば、それらは『カップ 6』で表現できる事象だと言えます。

先日、とあるお店で古いアルバムを見せてもらう機会がありました。50年以上も前の写真がストックされたアルバムで、表紙はもう日焼けして茶色くなっています。めくればとても懐かしい、絹目の印画紙にフィルムならではの色合い。1枚1枚にていねいなコメントが添えられて、アルバムの主である店主がとても豊かな時間を重ねてきたことがありありと想像できました。
昭和40年代から始まるアルバムは、全部で20冊を超えていたでしょうか。そこに写る笑顔は数えきれないほどです。店主が見てきた笑顔の数はそれを遥かに超えるでしょう。
昨年末に閉店したというその店は、まさしく『カップ 6』を象徴する存在のように見えました。アルバムに写る面々はもちろん、たまたま写る機会のなかった人々も含め、多くの人たちとの健やかで美しい交流が、長年の間その店を支え続けたのです。
その店には、未だ訪問客が絶えないとのこと。商いを辞めても、心のつながりを求めて人が集まる場所になっています。
そこからしばらく行った先に、もうひとつ『カップ 6』を連想するお店があります。
「コミニティカフェ」という言葉が掲げられたその店には、老若男女を問わず地域の人たちが集まります。同じ空間にいる人たちの間には自然と会話が生まれ、それぞれがそれぞれの美味しい料理を楽しみながら、ゆるやかな心の交流が行われています。
その現場を初めて目撃したとき、その空気を初めて味わったとき、しばらく夢の中から戻ってこれないような感覚になりました。私は複数人での会話に自分から入るのが苦手なので、名前も所属も何も知らない人たちの会話を聞きながらただ静かにお茶を飲んでいただけなのですが、それでも心の通い合いがあったように思うのです。それはまるでぼんやりとした夢の中のワンシーン、夢ならではの「現実では知らないけれど夢の中では知っている人」たちとの交流のようでした。
おそらくこの店では、さまざまな人たちの記憶に残る心の通い合いがたくさんたくさん生まれているはずです。
『カップ』の象徴するものは水で表されます。水は定まった形を持たず、周りと混ざり合いながら広がっていきます。風が吹けば震え、その波紋は遠くまで伝わって波を起こします。心と心の干渉も、物理的には触れ合わなくとも成立します。私はアルバムの中には登場しませんし、「コミニティ」にも属しません。それでも、カップの領域で発生した波紋のほんの一端に感応し、心は動きます。
『カップ 6』で表せる事象は、とても曖昧で証拠も根拠もないものの、あたたかいもてなしを受けたような気になるような、そして時間が経ってからもふと嬉しい気持ちを思い出すような、そういうものごとのイメージです。『カップ 6』に限らず、カップのスートはあえて明確に言語化せずに向き合うと、面白い発見に出会えます。