『ツインソウル』という名づけの魔法 ~続・一生忘れられないなぁ、という人のこと~

以前、こういった記事を書きました。

ソウルメイト、という単語はスピリチュアル系界隈を覗くと必ずと言っていいほど目に入る頻出単語です。テストに絶対出るから覚えておいた方がいいやつです。

私はこの記事で、以下のように書いています。

私のところに来てくださるお客さまの中にも、そんな出会いと気づきとそこからの変容に立ち向かっている方がちらほらいらっしゃいます。『ソウルメイト』という概念に固執するでなく、ただひたすら、その相手を通して自分に向き合い続ける人。相手軸でなく、「あの人に出会えたから私は私に向き合えている」と自分軸で捉え続ける人。そんな姿を見ると素直に応援したくなります。

しかしながら私はリーディングのときにソウルメイトっていう言葉は使いません。正直ソウルメイトかどうか、ってこと自体はあんまり重要視してなくて、というかそんなの真偽は誰にもわからないと思っていて、それよりもお互いがどんな役割をもった関係性でありそれを『ソウルメイト』と呼びたくなるほど重視できるか、ってことが大切だと思っている。そこが学校かどうかが重要なのではなくて、そこで何を学ぶかが重要、っていう感じ?

https://duck-works.com/column/momoneko/person-who-can-not-forget-life-forever/

今回の記事では、「ソウルメイトやツインソウルなどという呼称は使わない」理由と、私の魔法についてお話します。

ソウルメイト・ツインソウルとは何ぞや

ソウルメイト (soulmatesoul mate) は、soul(魂)とmate(伴侶、仲間)を組み合わせた英語の造語で、魂の伴侶のこと。一般的には、共通の価値観や好みといった深い親和性のある相手、気性の合った人、ロマンチックな結びつきのある相手、運命の伴侶、特別な恋人、相思相愛の相手、互いに深い精神的な繋がりを感じる大切な人、深い縁を持つ人などを意味する。
── Wikipedia – ソウルメイトより引用

はい。Wikipediaさんにはこのように記述があります。他にも『ツインソウル』『ツインレイ』『ツインフレイム』等、細分化された呼び名が複数ありますが、この辺りは諸所によって微妙な解釈のズレが散見されますので、ここでは一旦、いずれも「ソウルメイトの中でも特別に濃い約束をして生まれてきた魂」という解釈に留めておくこととします。

中でも『ツインソウル』というものは、元々はひとつであった魂がふたつに分かれてそれぞれの肉体に入ったもので、いわゆる「魂の伴侶」という概念を持ち、類語の中でも特に恋愛的な要素の強い言葉になっているようです。

名づけという魔法、名前が持つエネルギー

名づけという行為は、それはそれは強力なエネルギーを持ちます。名前をつけて認識したその瞬間、それは「それ」になります。

例えば、私の名前は「香織」、母が当初つけたかった名前が「桃子」で、母は未だに「桃子にしていたらどんな性格になっていたかしらね」と笑い話のひとつとして話します。

名前で性格が変わるということに確証はありませんが、幼い頃からその音や形や色や印象、そして意味を、「私」を表現するアイデンティティの最たるものとして育つのだから、影響してもおかしくありませんわな。名前というものはとにかく強大なエネルギーを持つものですから(魔術的にもね)、名づけとは祝福にも呪いにもなる行為、と言えます。でもってそのエネルギーをどう使うか……名前を祝福とするか、呪いとするか……は本人次第だったり、周囲次第だったりする。

第三者が、“名づけ”という祝福もしくは呪いを強めるわけにはいかない

「この人との時間を忘れることなど一生叶わない」と思えるほどの濃い恋愛体験があるとしましょう。そしてそれを「ツインソウルとの学び・統合への過程」と名づけるとしましょう。

この時点で、祝福にも呪いにもなり得る“名づけ”が行われるわけです。本来は形をもたない、純粋で混ざり気のない“思いやり”や“愛”に、「ツインソウルとは」「魂の伴侶とは」「ツインソウルの試練とは」「ランナー/チェイサーとは」……みたいな定義が、名前をつけることでどんどん付加される。

こうなってくると、例えば何らかの形で目の前に辛い現実が立ちはだかったとき、「ツインソウルとはこういったものだから必ずこうなるはず」「〇〇であるべきだから△△しなきゃ」みたいな、定義から生じる固執と執着に苛まれやすくなる。要は、『ツインソウル』という名づけによって自分自身に呪いをかけてしまう。それ以外の選択肢を自ら捨ててしまいやすくなる。

こうなると手詰まりを感じやすくなるからか、私(に限らず、いわゆる占い師さんやらヒーラーさんやら)のところに相談にやってくる人は、その名づけを呪いとしてしまっている場合も多いのね。

呪いにかかっている方は、依頼文で「もしや……」と思ってしまいます。「お相手は紛れもなくあなたの魂の伴侶です、ですから必ずあなたの元へ戻ってきます」と言われたがっている、切なすぎるエネルギーが、文章からしんしんと出ているわけです。

そんな方々に対して、神秘という絶大な力を用いてお伝えする占いやリーディングメッセージでその呪いを強めるようなことは、私には絶対に絶対にできないのだ。もちろん、『ツインソウル』という名づけをせず、ひたむきに思いやりや愛と向き合っている方にも、私がその名づけを行うことは絶対にできない。また、これは、祝福の状態であっても呪いの状態であっても同じです。名づけの魔法を行うことで、その方々の思いやりや愛に「定義」「固定観念」という歪みを与えるわけには、絶対に絶対に絶対に!いかない。

そもそも、思いやりや愛を定義に当てはめることができるのか?

いきなりですが、私はできないと思っています。私自身が実際に人間関係を重ねてきた今、「思いやりや愛は、後づけでパターンに分類はできても、定義に流し込むことはできない」と言いたい。要は、ソウルメイト云々に限らずすべての関係性に対して、単語の定義に当てはめること=名づけはできないと考えているのです。

『ツインソウル』という名づけが呪いになっている人は、単語の定義を支えや頼りにしている方が多いように思う。純然たる「好き」という感情に施した理由づけに、がんじがらめになっている方がたくさんたくさんいるように思う。「ツインソウルは非常に苦しい試練を迎えるものだ」とか「多くの場合、ランナー/チェイサーになる期間がある」とか、ね。

ただ、本当に本当に辛くて苦しくて寂しくて悲しいときに、「今は彼/彼女と離れている」「それでもどうしても好き」「彼/彼女がいないと寂しすぎる程、彼/彼女を求めている」というシンプルなところに戻るのがなかなか難しいことは、『ツインソウル』という名づけをしない私にも嫌というほど想像できる。だからみんな悩むし、こんがらがってがんじがらめの状態から抜けられないし、辛くて苦しくて寂しくて悲しいから、また『ツインソウル』という定義を頼る……

そして時折、ひとりでは耐えかねて、私のような占いをやる人間やヒーラーさんのような人たちに、もしくは同じように愛に苦しむ誰かに、何らかの言葉をもらいにゆくのですね。なんと切なくて純粋な想いだろう。

『ツインソウル』という名づけのエネルギーを用いると決めたあなたは、めっちゃすごいぞ

ももねこ自身は、紆余曲折七転八倒試行錯誤ありまして「思いやりや愛に名づけの魔法は使わない」と決めている(どうもこの分野に対しては名づけのエネルギーを自然体で使えない=使わずに向き合うのが私のスタイルだと認識した)のですが、『ツインソウル』という名のエネルギー・名づけの魔法を使う!と決められた人は、自然体でそのエネルギーを受け入れられる/用いられるタイプ、ということではないでしょうか。

思いやりや愛に関するできごとは驚くほど人間を発展させたり消耗させたりするもので、そこにさらに『ツインソウル』という名づけの魔法を使うと、長い長い旅に出た上に自ら退路を断つようなことにもなりますね。

一度そう名づけたら、そいつを捨てるにも諦めるにもかなりのエネルギーが必要になる。ましてや、曖昧な形で置いておく、なんて中途半端なことができなくなる。ひたむきに、純粋に、そして真面目に、自分を傷つけてまで!その思いやりや愛に没頭することとなる。

そんなとんでもないエネルギーを真っ向から使おう、という決意はそれだけですごい。もちろん、使わずにぶつかろう、という決意もすごい。「自分の人生に誰かを招き入れるというでっかいでっかい挑戦」に臨むと決めたことって、めちゃくちゃすごいと私は思う。すごいからこそ、しんどくならないようにしてほしいと思う。

『手放し』『引き寄せの法則』という言葉が起こしかねない、課題のすり替え

さて、先達が書かれた『ツインソウル』関係の記事をいろいろと読んでいると、「相手が離れている“今”という時間そのものに、そして自分自身に向き合おう」とか「絶対に大丈夫だと信じて“今”を生きよう」とか、そういった記載が散見されます。

これはスピリチュアル界隈の頻出単語である『手放し』に通ずるもので、ざっくり言うと「望みを手放し、宇宙に任せることができてはじめて叶う」というやつです。でもって、もうひとつの頻出単語『引き寄せ』にも通じます。ツインソウル系の話題でよく見る「会いたいと願う心が、会いたいと願い続ける現実を引き寄せている」というやつ。

これに関しても、「手放しや引き寄せができていないから、私はこんなにも辛い現実に直面している」という定義づけを、自分の思いやりや愛に関する課題に対して行うこととなる。

要は「この現実を変化させるためには、手放しと引き寄せの練習が必須条件」というすり替えに繋がる可能性がある、ということ。因果関係の認識がズレてしまう懸念がある、ということ。

「手放し・引き寄せの練習」についての意識

私自身、これまでの過程でいろいろなことを試したりやったりしましたけれども、結果的にそれらがもたらしたものは、直接的に願いを叶える魔法ではなく、「自分の手で願いを叶えるためのサポート魔法」でございました。

そこで提案なのですが。

「手放し・引き寄せの練習」で、欲しい現実そのものを望むよりも……

  • 「手放しの練習」で、心の目を曇らせる悲嘆や耽溺をなだめる
  • 「引き寄せの練習」で、引き寄せたい現実のイメージをはっきりとさせる

これくらいの感じで向き合うのはどうかな?

私の場合は、これを繰り返すうちに当時抱えていたでっっっかいモヤモヤがしゅーーっと集約されて、狙うべき一点が見えてきた。その狙うべき一点を認めるまでにまた新たな苦しみがあったけれど(あったんですよ)、結局は目の前に現れたチャンスを掴んで、自分自身の手で扉を見つけ鍵をぶっ壊しこじ開ける形で、それらとサヨナラしたよ。

いやー、実に大変だった。今思い出しても……いや、実は今となっては不思議と当時の苦しみを思い出せないんですけれども、とにかく大変だったという事実は覚えています。

というのもですね、その「狙うべき一点」を見つけて、さらにそいつを認める段階にならないとですね、せっかく現状を打破するチャンスがやってきてもスルーしてしまったり、勇気が出なくてそのチャンスを無駄にしてしまったりするのだ。

もしも今、目の前に一世一代のチャンスが現れたとして、そいつにがっつりと乗れるかどうか想像してみよう。「あーだめだ、怖い!相手から歩み寄ってほしい!」と思っている間は、きっとまだまだ“チャンスに乗る”段階を迎えていないのではないかと思います。

大切なのは、「手放さなきゃ」「引き寄せなきゃ」と思い込むことでなく、チャンスは急に目の前に現れると認識して、そのタイミングをがっつり掴めるように「手放しの練習」と「引き寄せの練習」をしておくことじゃないかしら。謂わばこのふたつの練習は、自分自身が譲れないもの・譲れるもの=本当に好きなもの・そうでないものを精査することでもあるのだ。

練習の結果、これだけは守る!という「覚悟と決意」が自分の中にできあがったとき、本当の意味での魔法が使える。奇跡がちゃんとやってくる。私はそう思うよ。

『ツインソウル』という名づけの魔法を使うと決めたなら

そうがっつり決めたなら、そのエネルギーをどうか自分を心地よく生きさせるために、せめて呪いにしないように使ってほしいなと思います。

そして、もしも『ツインソウル』のエネルギーに疲れてしまったときは、「私は疲れている」という事実をまっすぐに認識してほしいと思う。認識するだけで少し楽になるからさ。そしてもしも休めそうなら、休んでね。

というわけで、私は占いやリーディングという手立てを用いる者として、その魔法を使うと決めたクライアントのエネルギーに干渉するわけには絶対に絶対に絶対に!まいりません。なので、これから先も直接的な言葉では表現しません。(端的にカードの説明が必要な時なんかは、例外的にダイレクトな単語を使うこともあるけれど)

もし、「手放しの練習」と「引き寄せの練習」に役立つリーディングが欲しいと感じたら、ぜひ頼ってね!その段階は、客観的なメッセージ、きっと重宝するからさ。どんとこーーい!