タロットの大アルカナ『悪魔』から連想されるワードは、「堕落・誘惑」「固執・依存」「悪癖」のようなものです。カードの中で悪魔に捕えられた人間たちは、角が生え、尻尾が生え、少しずつヒトから悪魔へ変わろうとしています。
彼らの首にかかった鎖の輪はゆるく、逃げようと思えば逃げられる程度の束縛を受けているように見えます。それでも逃げ出さないのは何故でしょうか。
ひとつの可能性は、逃げるという選択肢そのものを持たないこと。そもそもこの場所の外に別の世界があることにすら気がついていないなら、ここ以外のどこかへ逃れようという発想自体が生まれません。
もうひとつの可能性は、彼らにとって今の状態が心地よいこと。このカードには、「このままだとマズいのはわかっているけれど……」という台詞が聞こえてくるような、そういうイメージもあります。
日常のできごとに例えるならば、ポテトチップスの徳用サイズを一袋イッキに食べきってはいけない、けれどお皿に入れるのは面倒くさい、袋から食べちゃえ、あー手が止まらない、このままだと食べきってしまう、いけない、でも……という場面や、SNSでおすすめされるがままに知らない人の投稿をずるずると眺めてしまう、こいつ誰やねん、特に興味もないのに、むしろ不快なのに、ふぅ画面を閉じたぞ、あっまた開いてしまった……という場面が思い浮かびます。
このようなパターンでの『悪魔』に感じる恐ろしさは、「このままだとマズいのはわかっているけれど」という前提を与えてくることです。この前提をもう少し細かく表現すると、「このままだと(一般論的には)マズいのはわかっている(し、周りの人にもそれはあかんと言われている)けれど(私はハラオチしていない)」という感じになるケースが多いと思います。
本当にその状態を「マズい」と判断する状態なら、おそらく悪魔の声は聞こえません。『悪魔』のカードに象徴されるような状態は、「このままだとマズいのはわかっているけれど」という前置きがあるために覚悟が決まらない状態、と言えるようにも思います。
この前置きこそが、『悪魔』がターゲットを人間と悪魔の間で揺るがせ続けるための罠なのではないか、と私は思うのです。人間としても悪魔としても中途半端な状態に留めおき、右に左に揺れる欲……まっとうな人間らしくありたいという欲求、いっそ悪魔になりきってしまおうかという欲求……を半永久的に吸うための、養殖の装置。本当に悪魔にしてしまいたいなら、何らかの取引を仕掛けて一発で悪魔にしてしまった方が効率的です。
一般論や常識、倫理観や善悪の概念などは時代ごとに目まぐるしく変わります。何かを拠りどころにしようにも、それにはこの世はあまりにも不安定です。結局のところ、自分自身が何を正とするのかを根気強く粘り強く考え、時代に合わせて柔軟に調整し、その時々に有用な軸を持って生きていくしかないのだと思います。
この「軸」の揺らぎ、自分以外の何かを拠りどころにしている不安定さにつけこんでくるのが『悪魔』だとしたら、そこから逃れる策は「私はこうする、という覚悟を持つこと」なのかもしれません。例えば「人間が善」で「悪魔が悪」と言い切るにはこの世はあまりに複雑であいまいです。どこかに答えを探そうとすると、結局はたいそう不安定な何かを拠りどころとすることになります。そうなればまた、悪魔の囁きが耳にそっと届き、ゆらゆらと揺れつづける振り子のように「欲」のエネルギーを生み出し続け、さらにはその欲に翻弄され続けることにもなるでしょう。
『悪魔』の気配を幸運にも察知できたなら、「自分自身で決める・覚悟をする」という対抗策を講じると、悪魔を追い払えるかもしれません。